奈良県立万葉文化館


加藤美代三日本画展 日本の原風景を描く
―日本画家96歳 生きることは描くこと―
(2008.5.29〜2008.7.27)

 九十六歳という年齢は、その三分の一しか生きていないので、どういうものか想像もつかない。明治四十年生まれだった祖父より、四十五年生まれの加藤美代三は五歳若いと考え、ようやく大よその距離感がつかめる。
 こう言っては何だが、美代三は日本画の世界では有名でも、一般の知名度は決して高くない。しかし、本展は好評である。たまたま来館して初めて画家の名を知った人たちが口々に、受付や展示室の監視員などに「感動した」「初めて知った。今後覚えておく」などと言って帰る、との報告をたびたび受ける。
 暑くなる時季でもあり無理のないようにと勧めたが、自ら案内状に日曜は会場にいると書いたので、不在では失礼だから、と毎週通ってくる。だが実は、知り合い以上に、多くの見ず知らずの来館者に話しかけられ、握手を求められ、一緒に記念撮影されている。監視員のなかには「私たちのアイドル」と失礼ながら「美代ちゃん」呼ばわりする者もあり大人気で、九十六歳はそれだけで存在自体重みがある。ただし、一般の評価は正直である。初対面の来館者を魅了するのは、真摯に描き続けてきた作品とそこに表われる人柄、生き様だろう。
 美代三は兵庫・豊岡の生まれ。京都市立美術工芸学校入学のため十三歳で上京、同絵画専門学校(現京都市立芸術大学)に進み、在学中の昭和六年、現在の日展の前身、第八回帝展に初入選。中村大三郎に師事して、帝展・塾展などに洋画風の表現を採り入れた風景画を発表、早くから注目された。卒業制作「風景」など今見ても感覚に古くささはなく、当時はなおのこと新鮮に映ったに違いない。
 ところで戦後の日展は三期に分けられる。第一期は文部省、のち日本芸術院、芸術院・日展運営会が主催した昭和二十一年から三十二年まで十三回。第二期は三十三年、社団法人日展設立から四十三年まで十一回で新日展と呼ぶ。改組第一回から現在まで続くのが第三期。今秋には節目の第四十回を迎える。
 美代三は戦後二十一年第一回日展から出品、二十六年第七回日展で白寿賞、翌年第八回日展では特選・朝倉賞を受賞した。三十一年から、審査を受けずに出品出来る依嘱となり、新日展まで通算十三回依嘱で出品した。ところが、四十四年の改組で、特選が一度だという理由で審査を受ける立場に戻される。普通、ここで出品をやめそうなところだが、彼は以後も審査を受け、昨年第三十九回日展まで出品し続け入選を果たしている。その間、淡々と描き続けたのは、本当に絵が好きだからである。私が知る限り、彼は画壇での上昇志向とは無縁で、描いていられる事、この道ひと筋に生きてこられた事の幸せが彼を衝き動かしている。
 一昨年、友人で和歌山県立近代美術館学芸員の奥村一郎と日本画画塾について共同研究を行った。なかでも、美代三が学んだ大三郎画塾については遺族のもとに貴重な資料が遺されていたので詳しく調査した。本展準備段階で、昭和二十年一月の塾展出品後、今も行方の知れない作品「橿原神宮」のための写生が見つかった。また、豊岡の彼の実家で「こんなのもある」と見せられた屏風の出来映えが素晴らしく追加借用した。見覚えがあり、資料を見返したところ、十二年の塾試作展出品「九月の霞沢岳」と判明。七十年ぶりの公開となる。日頃の研究がこうして役立つのは学芸員稼業の醍醐味である。
 開催直前に家族の申し出で出品をやめた素描が一点ある。本人は気に入っているのだが、開催にあたり当館との交渉窓口として父を支えた美代三の次男いわく「目を離した隙に父が手を入れ、違う絵になってしまった」。今秋の日展に向け始動してしまったらしく、そうなると止まらない。
 昨年、本人が当館講演会で「あと十年や十五年は生きられそう」と語った。創作意欲は衰えていない。九十六歳、すでに前人未踏の地に立ち、更にまだ想像を超えた地平に進もうとしている。
 出来るだけ多くの人に、作品を、生き様を見てほしいと思わせる画家である。ぜひ一度、明日香まで会いに来てくださればと思う。 
(主任学芸員 福田道宏)