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『万葉集』と日本文化

1.和歌とは何か

 日本の文学は約千数百年におよぶ歴史を持っています。西洋文学とは異なる特質がありますが、しいて言えば、ギリシア文学などでいう叙事詩・抒情詩・劇詩のうち、抒情詩が中心を占めています。なかでも和歌は、日本独特の定型抒情詩です。代表的な型は、5・7・5・7・7の31音で構成される、たいへん短い詩です。短歌という名前で現代も日本人に親しまれており、これを作る人も多くいます。古代には、もっと長い長歌(5・7・5・7……5・7・7)や旋頭歌(5・7・7・5・7・7)などの型もありました。
 こうした和歌以外に、俳句や川柳という5・7・5の17音だけで構成される定型詩や、連歌といった短歌の前半部(5・7・5)に別人が後半部(7・7)を足しさらに別人が次の短歌の前半部を作り……と、次々に複数の歌人が歌いつなげてひとつの作品を作りあげていく、独特な定型詩もあります。これらはすべて5音と7音のことばの組み合わせを基本としていて、中世に和歌を母胎として生み出されました。また、『源氏物語』に代表される物語をはじめとした諸々の文学作品にも、散文の要所要所で和歌が挿入されたり、5音と7音の組み合わせによることばのリズムを重視した文章づくりをしたりする傾向があります。日本文学にとって和歌はひじょうに重要な位置を占めているのです。
 和歌は既に、7~8世紀頃の歌を集めた『万葉集』に載っています。それ以前から、民謡や宮廷歌謡また芸能に付随した歌である、歌謡という口承詩が歌い継がれていたようです。さまざまな国や地域の文化を柔軟に取り入れていた古代日本において、ことに漢詩という中国の定型詩の刺激を受けて、書かれた定型詩である和歌が形成されたと考えられます。公的な場では漢詩文の教養が重視されましたが、私的な場を中心に脈々と和歌が受け継がれ、日本の思想や芸術の形成に深く関わっていきました。
 和歌は日本文化の大きな特徴のひとつであり、現代の生活にも生きているのです。

2.『万葉集』の概要

『万葉集』(写本)当館蔵

 『万葉集』は現存する日本最古の歌集です。20巻・4500余首の和歌が収められています。なかには5世紀前半の人物の作と伝わる歌もありますが、ほぼ7世紀前半から8世紀中頃までの歌を集めていると考えられています。
 歌を作ったのは、歴代の天皇や皇族、貴族たちをはじめとした律令官人、防人といって辺境警備に就かされた兵士や民衆にいたるまでの、さまざまな階層の人々です。皇族の女性であった額田王(ぬかたのおおきみ)や、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)・山上憶良(やまのうえのおくら)・大伴家持(おおとものやかもち)といった律令官人たちなど、現代にも名の知られている歌人もいます。このように『万葉集』に名前が残っている古代の歌人は、およそ500人いますが、万葉歌の半数以上は誰が詠んだかわからない歌です。
 また、男も女も歌を作りました。このことは、恋心を詠んだ歌がたいへん多いことに深く関わっているでしょう。古代の東アジアでは、歌垣といって歌をかけあい恋人をみつける行事がひろく行われていたようです。日本ではいまはもうなくなりましたが、現代にその伝統を残している国もあります。宴席などでは、恋人同士をよそおって歌を詠みあうこともありました。天皇のに伴う儀礼や宮中の年中行事、貴族たちの宴席や旅、葬送儀礼などでも歌が作られました。ほかに、物語や中国文学を題材にして歌を作ったり、滑稽な内容の歌を作って優劣を競い合ったり、いろいろな文芸的な試みもなされました。
 多くの万葉歌は、当時の政治の中心地であった奈良で詠まれています。その周辺の地域でもたくさんの歌が詠まれました。北は東北地方から南は九州までの地名が歌に詠まれています。これは天皇の支配が及んでいた範囲にあたり、各地の役所では、都から派遣された役人たちが地方を治める仕事に就いていました。
 こうした古代の人々が詠んだり集めたりした歌が『万葉集』として残り、日本の古代の姿を現代に伝えてくれているのです。

3.『万葉集』の成立

 『万葉集』の成立時期及び編纂者については詳しくは分かっていません。ただし、『万葉集』の中で、詠まれた日が確認できる歌で一番新しいものが、759年1月1日(陰暦)の歌であること、そして、『万葉集』の最後の方の数巻が、大伴家持及び彼と親交の深い歌人達の歌が中心となって、歌日記のようになっていることから、759年からほど遠くない時代(8世紀末頃)に、大伴家持が深く関わって編纂されたであろうと推測できます。
 『万葉集』編者は、その編纂にあたり、いくつかのテーマを設定し、同じ内容を持つ歌をまとめて収録しています。このテーマの代表的なものは3つあります。それは公的な場での歌(例えば天皇や都の賛歌、儀式の時の歌など)、恋愛の歌、人の死を哀しむ歌です。例えば巻1は公的な場での歌だけで構成されており、巻2は恋愛の歌と人の死を哀しむ歌とで構成されています。またこの他にも細かなテーマが巻によって決まっていて、代表的な3つのテーマをさらに四季ごとにに分類した巻(例えば春の恋愛の歌や夏の恋愛の歌など)や、防人の歌ばかりを集めた巻、あるいは伝説や物語を伴う歌などを集めた巻などもあります。このように、『万葉集』の20巻は、それぞれが個性をもった巻として編纂されているのです。
 ところで、『万葉集』が成立した8世紀以前の古代日本には、まだ我が国固有の文字がありませんでした。当時の日本人は、隣の中国の文字(漢字)を利用し、役人などは漢文(当時の中国語)で文書を書いていました。しかし、日本固有の詩歌である和歌を中国語では書き表せないために、漢字の音を利用して、日本語の発音に当てはめる方法を考え出しました。

4.万葉時代の文化の国際性

 日本は四方を海に囲まれた極東の島国であり、国際的な文化から取り残されているように思われるかもしれません。しかし万葉歌が作られた時代の日本には、国際色ゆたかな文物が満ちあふれていました。飛鳥・白鳳時代(7世紀)に作られた奈良の飛鳥寺や法隆寺の仏像は北魏様といわれる中国北部の様式で、同時期の中宮寺の仏像は南梁様といって中国南部の様式です。7世紀末から8世紀初頭に作られた高松塚古墳・キトラ古墳などの壁画には、朱雀・玄武など各方位を守る四神や星宿という天体図・十二支が描かれていますが、それは中国文化・朝鮮文化のつよい影響があったからです。8世紀中葉の聖武天皇(701~756。在位724~749)がひごろ使用していたという正倉院所蔵の品々には、たとえば狩猟文錦という絹織物があり、ペルシャで普及していたライオンを矢で射る文様が織り込まれています。また樹下美人図屏風には聖なる木の下にたたずむ女性の像が描かれています。これらはシルクロードを通じて中国にもたらされたデザインです。
 万葉歌人たちはこうした高い国際性を帯びた文化的環境のなかにいましたので、その歌もまた国際色ゆたかでした。皇族・貴族や官人たちは多くの中国の史書や詩文などを読み、また僧侶たちは中国語に訳された経典などを読破していました。そのなかの貴族の一員である大伴家持は、樹下美人図を思い浮かべるような歌を詠んでもいます。
 こうした国際性を持ち得たのは、日本人が遣隋使・遣唐使などを派遣したり、また新羅使・渤海使などと交流し、それぞれと国交を結んで文物の流入に努めたからです。なかでも中国は政治・経済・文化などすべてにわたって日本の模範とみなされており、遣唐使は8世紀末までの170年間に17回ほど任命され、首都であり国際都市であった長安(現在の西安市)などに赴きました。また留学生・留学僧も数十年という長期間滞在し、文化的な理解や文物の輸入に尽力していました。

5.『万葉集』と日本文化

 国際化社会・グローバル化した社会に生きている私たちは、つねに自分たちと異なった文明・文化に接する機会を持ちながら生きています。時には文明同士で衝突したり、文化のギャップが顕在化することだってあります。そうした時代状況のなかでは、個別の文化に固有なものと普遍的なものがあることをおたがいに認識しあうことが重要です。
 文化には、文字化して蓄積できるものと、文字化できないものがあります。文字化して蓄積された資料や書物のうち、社会に共有されるべき財産となっているものが古典です。
 『万葉集』は、7世紀と8世紀を生きた日本人の生きた声を伝える歌の全集ともいうべきものです。現在、『万葉集』は古典のなかの古典ともいうべき位置を占め、国民文化の象徴としての役割を果たしています。『万葉集』に日本人の遠い祖先のありのままの声が反映されているかどうかには疑問もありますが、万葉を学ぶことが伝統的短詩系文学の基礎となっていることは疑いないことです。なぜなら、日本人が長く伝えた短歌という詩の形式は、『万葉集』の時代に確立されたものだからです。
 日本の修史事業は、7世紀に始まって、8世紀初頭に「古事記」と「日本書紀」として結実します。この修史事業が行われたのが、日本古代国家の基礎が築かれた時代でした。漢字・儒教・律令・仏教を基とした国作りが急がれ、これらを共通項とする中国文化圏の辺境の一国家として、日本は歩みつづけてゆくのです。天皇を中心とした律令国家が形成されたのは、この時代でした。この時代に形成された国家の運営システムは長く日本社会を規定し、省・大臣という呼称や、道などの行政単位名も長く踏襲されてゆくのです。7~8世紀の歴史を学ぶことは、日本の歴史や文化の基を学ぶことなのです。
 この時期の歌々を収載する歌集こそが『万葉集』です。万葉歌を学ぶことは、日本の国家のグランド・デザインを作った人びとの肉声を聞くことです。この時期の都は、近畿地方のなかでもとくに奈良県に集中していました。飛鳥京(592~694)・藤原京(694~710)・平城京(710~784)はすべて奈良県にあり、奈良県はかつて万葉の都が置かれていた土地ということができるでしょう。
 奈良県は、万葉の都の歴史遺産とともに歩む街であり、『万葉集』のふるさとでもあります。今日の国際化社会において第一に求められているのは、みずからの文化を自覚的に認識し、それを発信して相互理解を深めることです。そういう時代の要請に応えて、全国的・国際的な『万葉集』に関する情報発信拠点を作ろうと私たちは考えました。そこで万葉文化館には、『万葉集』を伝統的な日本画によって理解してもらうための美術館機能、万葉の時代を体感するための博物館機能、『万葉集』の研究と研究情報の蓄積と発信を行う研究所機能が備わっています。万葉文化館は、これらの活動を通じて、『万葉集』と万葉文化の発信をし続けていきたい、と考えています。

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